【国会レポート】政治家の決断が守ったPKOでの自衛隊員の命【2016年1号】

今、国会議員で戦争を体験した人はほとんどいません。しかし大野元裕参議院議員はイラクの首都バクダットで戦争を経験しています。大野さんの友人のイラク人女性が、お父さんを自宅前で殺されてしまった時のこと、「普通なら自宅から飛び出して路上に横たわっているお父さんの遺体にすがりつくはずですが、実際には遠巻きにお父さんの遺体を見る事しかできませんでした。なぜならお父さんの遺体に爆弾が仕掛けられている恐れがあったからです。すがりついたら一緒に爆破されてしまうかもしれません。戦争とはこのように悲惨な事態です」と大野議員は語ります。戦争の体験があることに加えて、外交安保、中東問題、テロ問題の専門家でもあります。だからこそ、2012年に日本のPKO部隊をゴラン高原から撤収させるという判断もできたのでした。もし撤収させなかったら、オーストリアの部隊と同様に銃撃されて日本人の犠牲者が出た恐れがありました。大野議員の判断で、日本のPKO部隊は間一髪で助かったのでした。自衛隊のPKO(平和維持活動)について考える貴重な経験と思い、今回、大野議員にインタビューを行いました。

大野元裕参議院議員に聞いた“ゴラン高原での自衛隊のPKO”

―――イスラエルとシリアの間のゴラン高原の場合、危険地域ではないとされていましたね。

大野:PKOにおいてもゴラン高原は世界で一番安全だといわれていました。1996年から18年にわたって合計34の自衛隊の部隊が派遣されたのです。ところが、2010年暮れから中東や北アフリカで始まった「アラブの春」(大規模な反政府デモを中心とした騒乱)の煽りを受けて2011年からシリアの政情も不安定になってきました。それで2012年の後半にはゴラン高原でもIED(簡易手製爆弾)などが仕掛けられるようになってきたのでした。私はもともと中東の専門家であり、シリアにも住んだ経験があるので、シリア情勢は絶対に良くならないと確信したのです。

しかも当時、私は防衛大臣政務官兼内閣府大臣政務官で、内閣府ではPKO担当でした。ゴラン高原にいた自衛隊の部隊は60人ほどでしたが、そこの隊長からテレビ電話を通じて現地の状況を訊くことにしました。隊長は40歳くらいだったでしょうか。テロリストが難民を装っていたとか、ゴラン高原からテロリストの撃ったロケット弾が、イスラエル側に落ちたなどという話もあり、やはり、不安を感じているのがわかりました。3週間くらい頻繁にテレビ電話で会話したのですが、平静さを保ちながらも、事態が逼迫してきたことがひしひしと伝わって来ました。

―――それで大野さんも現地に行くことになったわけですね。

大野:すでに12月になっていたのですが、あのときは、通訳の費用を切り詰められてしまったため、現地では私自身がアラビア語や英語をしゃべる羽目になりました。また、シリアに着いた朝、ゴラン高原の入口で銃撃戦があったとのこと、そこでゴラン高原行きの中止を求められたものの、時間を無駄にできないので押し切ってゴラン高原に入ったのです。ゴラン高原の自衛隊も含めたPKO部隊の司令官はインド人でした。しかし、この司令官にすべてを委ねる判断はできませんでした。私は政治家として、日本の部隊の安全を危惧して撤収すべきと判断したのでした。

―――部隊を撤収させることへの各府省の対応は、すんなりいったのですか。

大野:ゴラン高原からの部隊の撤収はまず防衛大臣に進言しました。防衛大臣の同意は得たものの、当時のゴラン高原への自衛隊派遣には、内閣府、外務省、防衛省の3つが関っていました。防衛省と内閣府は問題なかったのですが、外務省は最も積極的にPKOを推進していましたから、外務省を説得しなければなりません。それで私が外務大臣に対して膝詰め談判し、最後は外務大臣から「総理が撤収を認めるなら外務省も従う」という言質をもらうことができたのです。

その直後、すぐにゴラン高原の部隊には「以後、基地の外に出るな」という指示を出しました。実はこのときにはオーストリアの部隊が日本の輸送部隊と一緒にシリアの首都であるダマスカスへ行くという要請があったのですが、この要請も断ってもらいました。このオーストリアの部隊が単独でダマスカスに行ったところ、途中で兵士2人が撃たれてしまい、1人死亡、1人重体という悲惨な結果になったのです。オーストリアの部隊には申し訳ありませんが、日本の立場からいうと日本の部隊の撤収は本当にぎりぎりのタイミングでした。

この後の12月21日に総理の承認をもらって防衛大臣が正式にゴラン高原からの撤収を部隊に命じました。部隊の全員の撤収が完了したのが翌2013年1月15日です。

―――まさに間一髪でしたね。一緒に行ったらオーストリアの部隊の代わりに日本の部隊が被害に遭っていたかもしれません。

大野:オーストリアの部隊もそれで死者が出てしまったので、国内の世論が沸騰して日本の3ヵ月ほど後に撤退を決めました。

―――ゴラン高原のようにいくら安全とされている地域であれ、状況は突然ガラッと変わることがあるのですね。

大野:特に中東のような不安定な地域では現地にいて変化を把握するのはなかなか難しいといえます。

また、自衛隊の皆さんは、日々、厳しい訓練を行い、与えられた任務については、最後まで完徹することを決意しています。国際貢献についても、高く評価されています。しかしながら、今回は、私たちが政治の責任において撤収をすべきかどうかを判断する必要がありました。ゴラン高原からの撤収は、政治の責任で判断して決めたという点で成功だったと思います。それに総理や大臣を動かせるのはやはり政治家だけなのです。